活水と蝶々さん、ラッセル先生、コレル夫人との出会いなど。この長崎で起こったことを切り口に、長崎を世界に発信していきます。

スポンサーリンク

上記の広告は、30日以上更新がないブログに表示されています。
新たに記事を投稿することで、広告を消すことができます。  

Posted by のらんば長崎運営事務局 at

2010年03月05日

オペラ“蝶々夫人”長崎活性化への道

プッチーニのオペラ“蝶々夫人”は、ビゼーの“カルメン”、ヴェルディの“椿姫”と共に、世界の三大オペラと言われ、現在でも年間上演回数が最も多いオペラの一つである、ことはご存知だろうか?

「えつ、本当か?」と日本人は言うだろう。

大体オペラ自体の日本での上演回数が少なく、オペラというと最低でも1万円、良い席になると5万円以上出さないと観に行けない。 日本でのオペラは欧米に較べて、まだ、生活に密着していないのが現状である。

しかし、欧米、特にイタリアなどは、それこそミラノでなくても各都市にオペラ劇場があり、オペラは市民生活の重要な要素なのだ。

ニューヨークでもロンドンでもオペラの上演は盛んであり、従って、蝶々夫人という名前はむしろ欧米での方が有名で、日本人でもっとも有名な女性は、蝶々夫人であることに間違いない。

象徴的なのは、三浦環=蝶々夫人と言われる位、世界中でオペラ“蝶々夫人”に出演しまくった三浦環の日本初演は、何と2001回目(ただこれは、若干アリアだけ歌ったものも含まれているようで、全部がオペラ全曲の上演だけではないらしいが)で、昭和11年(1936年)6月27,28日、歌舞伎座にてであった。 オペラ自身の日本初演は昭和5年、(1930年)であったが。

即ち日本より遙に海外で有名なのである。したがって、こんなに世界中に知られた、蝶々夫人を活用しない手はない。

長崎の活性化、長崎を世界に売り込むには蝶々夫人を目玉にするのが一番の早道である。

まず、下記のエッセイ「夢のオペラ」をご覧頂きたい。



『今、オペラ「蝶々夫人」の幕が開いた。「おーっ」と客席がどよめく。舞台の背景は長崎の港。美しく晴れた長崎の港。白い客船が静かに入ってくる。この背景は絵に描いたものではなく、本物の長崎。まさにリアルタイムの長崎の港。そう、舞台の正面は大きな透明のガラスで、長崎の港がそっくり見下せるのだ。ここは港を見渡せる丘の斜面に造られたオペラ・ハウス。世界に一つしかない本物の背景の前で、「蝶々夫人」の舞台は進行していく。

ギリシャのエーゲ海を見下ろす丘の上に、古代の野外劇場の遺跡が今でも残っている。在りし日、ここでは、青い海を前にギリシャ悲劇が演じられていたのだろう。目を閉じると、白い衣を纏った役者たちの力強い声、観客のざわめき、潮のにおいのする風、想像はどこまでも拡がっていく。もし、このイメージを現代の長崎に置き換えたらどうなるだろうか。行き着いたのが《港の見えるオペラハウス》である。

このオペラハウスでは、毎月最初の週に内外のオペラ歌手たちによる「蝶々夫人」が上演される。世界中のオペラ歌手、指揮者、演出家たちにとって、このオペラハウスで「蝶々夫人」を上演することは夢なのだ。つまり「蝶々夫人」の聖地となっている。

世界各地から「蝶々夫人」を観ようと観光客が訪れる。「蝶々夫人」の上演されない週は他のオペラや様々なコンサートが行われる。もちろん出し物によって、ガラスの背景は閉じられ、必要な舞台装置が置かれる。

(中略)

オペラ「ラ・ボエーム」の舞台のパリ、「トスカ」の舞台のローマ、「トゥーランドット」の舞台の北京と並んで「蝶々夫人」の舞台は長崎に設定されている。長崎は世界の大都市に伍してプッチーニに選ばれた数少ない街なのである。「NAGASAKI」という地名はオペラ「蝶々夫人」を通して世界中の人々に知られていることを長崎の人々はあまり気づいていない。もし、この知名度を新たにテレビや新聞、雑誌などのCMで獲得しようとすれば、何百億円、いやそれ以上の費用が掛かるだろう。つまり長崎は既にそれだけの宣伝に対する投資が終わっているということである,あとはオペラというご馳走を準備

するだけで、世界中からお客さんが集まってくるはずだ。

 (後略)』



これは、長崎県オペラ協会員で、蝶々夫人にも出演されたこともある、松藤雅彦氏が2005年に長崎で上演された蝶々夫人のプログラムに載せられたものである。

我々は、まさにこの夢を実現し、長崎へ来た観光客は、必ずオペラ蝶々夫人を観て帰り、

それが、長崎観光のまさにハイライトとなるべき、と考えるのである。

最近、長崎港には年間約50隻のクルーズ船が入港しているが、出島、グラバー邸、大浦天主堂、諏訪神社、原爆記念像、歴史博物館、等の歴史的な建物だけでなく、蝶々夫人のオペラを観るのが定番となれば、もっと多くの欧米系クルーズシップが長崎へ寄航するようになるのは必至である。

かつて長崎は、世界に開かれた唯一の開港地として、日本の都市としては、東京、京都と長崎しか、西洋の地図には書かれていない時代もあったのである。

明治以後、三菱造船、三菱電機の工場を中心として、日本の工業化の中でも重要な地位を占めた時期もあったが、立地上、これ以上の工業化による活性化は難しく、長崎は今後、歴史、文化を資産とし、観光を中心として生きていかなければならない。

幸いにも、東洋のナポリやモナコとなりうる、歴史、文化を背景に持った、美しい港町になり得こと、東洋でのキリスト教の巡礼地となれる資格もある。

これに、オペラ“蝶々夫人”の観劇という目玉が加われば、まさに長崎は東洋一の観光地になると信じるものである。



以下、各項目に亙って検証をしてみたい。

1.オペラ“蝶々夫人”とは

2.蝶々夫人の実像

3.“蝶々夫人”オペラハウスの実現性



1. オペラ“蝶々夫人”とは



オペラ“蝶々夫人”を売り込むには、“蝶々夫人”とは何か、そんなに世界に売り込む価値があるものか?を、まず、はっきり掴んでおく必要がある。

その成立の概略を述べると、1897-8年に、当時長崎の東山手にあった鎮西学館館長のコレル氏夫人、サラ・コレル夫人が、「長崎ではこんな悲恋物語があったのよ」と、弟の、フィラデルフィアで弁護士見習いをしていた、ジョン・ロングに話したものを、文才があった彼がインテリ向けの月刊誌、センチュリーマガジンに発表した「マダム・バタフライ」が端緒である。(鎮西学院発行、著者古崎 博氏の「原作蝶々夫人」による)

これは、大評判となり、すぐさま、当時ニューヨークブロードウェイでは、戯曲作家としては第一人者の、デヴィッド・ベラスコが劇化し、(1900年3月)これまた大評判となった。その後すぐ、ロンドンでも公演されるようになり、それを1900年7月に、たまたまイギリスに来たプッチーニが観て感激、すぐさまオペラ化を決意、ただ、交通事故などもあって作曲完成は遅れ、オペラの初演は1904年2月、ミラノのスカラ座であった。

初演は必ずしも受けは良くなかったが、一部書き直して再演した後、大当たりとなり、

その後は、世界各地で上演されるようになって、既述の通り、3大オペラの一つと言われるまでとなったのである。

ここで、三浦環が登場する。ところが彼女はヨーロッパで歌の勉強をするために、1914年(大正3年)丁度30歳の時に夫の三浦政太郎と共に横浜港を出港した。

上野の東京音楽学校を出て、帝劇などのスターとして活躍していたが、離婚、再婚などの当時としてはスキャンダルになるような派手な性格もあって、ヨーロッパで勉強し再スタートしたいと思ったらしい。 ところが、ヨーロッパで、オペラ“蝶々夫人”役に出会い、その後は“蝶々夫人”にしか出ない、いわば三浦環=蝶々夫人になってしまったのである。

彼女が海外で歌ったという2000回の“蝶々夫人”は、渡欧から51歳での帰国までの約20年間であり、1年に100回となる。 仮に約2割近くはアリアだけの演奏会だったとしても、夏のシーズンオフを除いて、ほぼ毎週2回、どこかで、三浦環が出演するオペラ“蝶々夫人”が上演されていたということになる。 “蝶々夫人”歌手としては、当時、イタリアのファーラーやアメリカのストルキオもいて、三浦環を加え、この3人が世界の三大蝶々夫人と言われたので、「オペラ“蝶々夫人”」はもっと多く上演されていたわけであり、更に言えば、一時欧州では三浦環を凌ぐと言われた、喜波貞子(彼女も1700回蝶々夫人に出演したという)もいるので、世界で最も上演回数が多いオペラの一つとして、三大オペラに数えられることは当然である。

三浦環の自叙伝を読むと、若干誇張はあるにしても、ヨーロッパだけでなく、ロシア・アメリカ・南米まで足を延ばし、各地で大歓迎を受けたことが書いてある。

プッチーニに「マダム三浦、どうぞあなたの「蝶々夫人」はオリジナリティを失わないようにして下さい」と言われたとか、ウイルソン大統領の前でも歌った、とあるが、いずれにしても、これだけ長崎の“蝶々夫人”を世界に宣伝してくれているのである。

グラバー邸に立つ三浦環の蝶々さん像、彼女は今も観光スポットで、まさに長崎観光の目玉、蝶々夫人の「ある晴れた日に」を歌ってくれているのである。



2.蝶々夫人の実像

ここで、もう少しオペラ“蝶々夫人”の中味について勉強してみよう。

蝶々夫人は、雑誌記載から始まり、本、戯曲、舞台演劇を経て、オペラになったものだが、

このモデルは誰か、ということが話題を呼び、かなりの詮索が行われた。

色々な説があるが、未だ確定していない、というか、コレル夫人が弟のロングに伝えた話、その後の数々の証言で、モデルになった女性への慎重な配慮をしているので、わからない、と言ってよいであろう。

つまり、全く架空のフィクションではなく、モデルになった女性は実在したが、ロングは姉コレル夫人の話を元に書いたフィクションだと言っているので、あるモデルがいるフィクションである、と言う外はない。

人間の本質の存在とは何か?ということは哲学上の大命題で、神の実在論と共に、私の存在、つまり私は実存するかどうかも、まだ本当はわからないと言ってもよい程である。

と言ってしまえば「不可知論」になってしまうが、人間は生まれて死ぬまで、この世界の中に「ある現象」として現れる。 その中でさまざまな営みをするが、それは他の同世代の人、近くにいた人によって、これまたさまざまに認識される。

しかし、その人の本質が正しく認識されるかどうかはわからない。

仮に、Aという人がBという人に一生ぴったりとくっついて、Bの人について「ノンフィクション」を書いたとしても、それがBの本質、つまり、真の実在かどうかは疑わしい、Aの主観が入った単なる現象の記述かもしれない。

何を言いたいかというと、完全な蝶々夫人の一生を記述することは不可能ということで、小説“蝶々夫人”も、オペラ“蝶々夫人”も、歴史的に実在したあるモデルを使ったフィクションであることは確実である。

小説とは「そういうことがあったかも知れないというフィクションである」と言われるが、不正確なノンフィクションより、すぐれたフィクションの方が、本質、つまり本当に起こったこと、本当の実在を記述しているのかも知れない。

我々はジョン・ロングの(和訳だが)原本も読んだし、オペラ“蝶々夫人”も何度も観た。

しかし、現在のところ、一昨年10月に出版された、市川森一の小説、“蝶々さん”が、最も本質というか、実在に迫っている、と思う。

事実、帯書きにも「蝶々夫人は実在した。文明開化の未来を信じて生きた聡明な少女の数奇な人生を描く感動の超大作」とある。

勿論、こんな事を言うと歴史家には怒られる。司馬遼太郎の“坂の上の雲”や、塩野七生の“ローマ人の物語”なども、歴史家には評判が悪い。司馬歴史観による秋山兄弟や塩野歴史観によるシーザーだけが本物と大衆に信じさせてしまうからである。

小説“蝶々さん”は2006年5月5日から2008年5月3日までの2年間、毎週土曜日の長崎新聞に連載されて、世に出た。歴史家には申し訳ないが、今後これが蝶々夫人たる伊東蝶の実像となるのではないか。 蝶々さんは生き生きと描かれ、人々にその実在を信じさせる迫力を持っている。



それによる、蝶々さんの生涯の荒筋を書いてみよう。

まず、オペラ“蝶々夫人”の題名を“蝶々さん”に変えるべきではないかという気がする。

彼女が、オペラではピンカートンとなっているフランクリンアメリカ海軍少尉に会ったのは18歳の時、そして死んだ時はその2年後まだ20数えでは21歳)の時だったから、夫人というイメージではない。伊東蝶は佐賀旧鍋島藩の飛び地、長崎港の出口にある深堀の武士、伊東鼎之助と森村やえが結婚の祝言をあげ、最初の契りを結んだ時の子どもとして生まれた。

伊東鼎之助はその直後、江藤新平が起こした佐賀の乱に合流しようとして諫早へ使いに行く途中、殺害されてしまう。これは明治7年のことである。

母やえと祖母しまに育てられた蝶は、明治18年に発生したコレラ禍で、やえが死ぬまでは父なし子ではあったが、幸福な少女時代を過ごした。

ここで、重要な事実として、小学校に田代先生という非常に開明的な先生が居て、彼女に聖書を与え、英語を教えたことである、これが後に彼女がフランクリン少尉と会った時、自習英語ではあるが、英語がかなり話せたことにつながる。

小学校を卒業したらすぐ、悪い叔父の手で、丸山の水月楼へ養女という形だったが、百円で売られてしまい、15歳からは舞妓となった。

しかし、百円の借金は、深堀出身の奇特な実業家渡辺元が、その後の養育費も含め二百円を出し解消してくれて、自由の身になっており、開校間もない活水女学校にも入学しようとしたが、色んな事情で結局果たせなかった。

17歳になった時、来日した前述のコレル夫人に小間使いとして雇って貰おうと訪問しているが、これもタイミング悪く既に他人が雇われたあとで実現していない。

彼女はその後コレル夫人から英語を習っている。何故かと言えば、小学校からずっと親友だった谷川ユリが、デヴィソン牧師夫妻の養女となってアメリカへ行っていたので、いつかは自分もアメリカへ行きたいとの夢を持っていたからである。

ただ、その後も舞妓も続け、後に長崎一の有名な芸者となる舞妓「愛八」とコンビを組んだが、髪結いの仕事を主とし、髪結いお久の店に下宿して、週に一度の英語のレッスンも欠かさなかった。

余談だが、婚前セックスが当たり前になった現代の若い読者は、舞妓でお座敷に呼ばれるようなら、当然処女は失っているのだろうと想像すると思うが、当時の舞妓は絶対に処女であった。

舞妓が芸妓となって一本立ちするにはお披露目代や衣装代等相当の金がかかる。従って、その時、金持ちの旦那が、水揚げ、つまり舞妓の処女を買って大金の水揚げ代を出すのである。芸妓や舞妓の置屋としては、処女でない舞妓で水揚げ代を取ったら、「傷物」で金を取ったとして、以後絶対に丸山では仕事は出来ない。舞妓の行動は厳しく監視されることは当然である。通常の場合舞妓は17-18歳になると芸妓となるが、もし、百円とか二百円で売られていたならば、舞妓になれるかどうかはわからず、16-17歳から客を取る娼妓にされるのが普通であろう。

従って、渡辺元が蝶々さんの借金を完済してくれたことは大きな意味をもったと言える。

そこで運命的な出会いに遭遇する。

1892年7月1日の朝、アメリカ合衆国極東艦隊に所属する巡洋戦艦「ゲティスバーグ号」が長崎に入港した。

7月4日の独立記念日の祝賀宴会がアメリカ領事館で開催され、その席へ接待のため呼ばれていた舞妓達の中に蝶々さんも居たのである。

当時、東山手、南山手の外国人居留地には、約900人の外国人がおり、シナ人が約600人で一番多かったが、アメリカ人も約50人で英国についで3番目で、これ等居留アメリカ人とゲティスバーグ号の士官クラス以上が招かれていた。

ここで蝶々さんはフランクリン少尉と会い、英語も出来ることから、仲良くなった。

フランクリン少尉の方は、ピエール・ロチの「お菊さん」も読み、はじめから長崎に行ったら、船の修理のための滞在期間中、所謂現地妻を娶る「長崎式結婚」をしようとしていたわけだが、蝶々さんとしては正式の結婚の申し込みと思い込んだのである。

オペラ“蝶々夫人”はこの結婚式のシーンから始まるが、このあとはすでに誰でも覚えているし、若干の間違いはあるが、起こったことの大筋の記述は、ロングの小説とも一致している。7月4日の出会いから、10月20日の出港まで、3ヶ月半の短い新婚生活、出港の2-3日前に蝶々さんは妊娠したことを夫に告げ、彼は再会、必ず迎えに来ると約束する。翌年5月25日「襄」(Joe)を出産。

1894年6月20日、待ちに待ったゲティスバーグ号が再び入港したのに、フランクリン少尉は姿を見せない。代わりに現れたのはケイト夫人だった。

襄を引き渡し、すべてを片付けて、蝶々さんは懐刀で喉を突き自殺する。

オペラでは、ピンカートン=フランクリンが、蝶々さんには会わないが、周辺をうろうろしながら嘆くことになっているが、市川森一の蝶々さんでは現れない。

また、当然ながら蝶々さんの辞世の句も、小説、オペラ共ないが、素晴らしいものである。

  蝶は往く霧立つ海に花ありと



以上、堂々たる死に方である。「武士は死ぬことと見つけたり」という葉隠れの冒頭の言葉が正に反映された、武士の娘としての立派な死に方であり、短いながらも立派な人生であった。蝶々さんの生涯が世界中の注目を集めるオペラとなるのは当然である。



3.“蝶々夫人”オペラハウスの実現性

いよいよ我々の主たる命題である、オペラ蝶々夫人を目玉として長崎を活性化する問題に入る。

冒頭に書いた、松藤氏の「夢のオペラ」のようなオペラハウスを作れたら最高である。

これには、土地代は、県か市の公有地を利用し無償にしてもらっても、新築には、50億円程度の費用が掛かるであろう。現在の長崎市の、経済状態では少々無理があるかもしれない。

しかし、25億円位あれば、専用ホールの建設は不可能ではない。

能登半島の小都市、七尾市の「能登演劇堂」の例もある。

下記のURLで見て貰えばわかるが、総工費27億円で650席の立派なホールを作っている。 まんざら長崎港を見下ろす「夢のオペラ」も夢ではないかもしれない。

http://www.engekido.com/sisetsu.html

また、現在の市民会館が老朽化しているので、建て替えの計画も話題に上っていると聞くし、この建て替えと1.000人収容規模の付属オペラハウス設置も良案と思う。

更に言えば、県庁の移転について賛否両論があるようだが、思い切って県庁はオランダ村とか、ハウステンボスへ移転し、現在の跡地に、海軍伝習所を復元、このオペラハウスと一緒に建て、丁度長崎歴史文化博物館と同じような方式にすれば、それこそ観光の目玉が更に増えることとなる。(県と市の共同事業で、旧奉行所復元と歴史博物館を建てた)

仮に、以上のすべてが無理でも、現存のブリックホールで開催は可能である。

オペラ蝶々夫人を毎月どころか、毎週一回は必ず上演することは、必ずしも不可能ではない。 特に、観光船が入港するのに合わせて上演することは可能で、下記にブリックホールを使用した場合の、その方策を提案してみたい。

ただ、現在のブリックホール大ホールの稼働率は75%以上であり(317日の稼動可能日のうち240日を使用)、もし我々が、当初の数日の練習日を含め、約60日をブロックしてしまえば、他の行事の開催がかなり窮屈なって、市民に迷惑をかけるので、やはり別に専用のオペラハウスを建設するのを本命としたい。



Ⅰ 過去における実績の調査



長崎における過去のオペラ蝶々夫人の上演は、初演が何時で、現在まで、何回上演されたかを調べてみたが、オペラ協会が開催し始めた以後はわかるが、その前は誰も知らない。原稿締切りに間に合わないので、そこはブランクとし、判明しただけのリストを下記する。演奏会形式公演は除き、一応本格的オペラとして上演したものに限る。


回数

年月日

場所

観客数

入場料

主催者


初演








































1982/11/21

市公会堂





オペラ協会第4回定演




1984/3/21-22

市公会堂





オペラ協会第回9回定演




1990/10/20-21

市公会堂





オペラ協会第13回定演




1998/10/3

ブリックホール





藤原歌劇団(ホール杮落し)




2001/8/13

ブリックホール





田崎真珠




2004/10/

長崎市民会館





おんともクラブ




2005/1/29-30

長崎市民会館





オペラ協会第25回定演


8

2008/10/25-26

ブリックホール

2100

5500

オペラ協会第28回定演

この外に実際のオペラ上演ではないが、「マダムバタフライ国際コンクールin長崎」が行われている。(マダムバタフライとなるとマダムバタフライ世界コンクールやマダムバタフライインターナショナルコンサートなど、東京や世界各地で行われているし、歌われている曲も、オペラ蝶々夫人の曲だけではない。また、コンクールについては著作権問題も発生したようなので、長崎で行われたものに限って記述する。)

2004年11月に第1回が行われ、2006年、2008年と2年おきに開催されているが、今後は3年おきになるようで、その入賞者によるコンサートも開催されている。



Ⅱ 収支計算

上記の記録の通り、過去の記録の収入支出の詳細は残っていない。

直近の上演、2008年10月25,26の両日ブリックホールで開催された、長崎県オペラ協会の第28回定期演奏会だけは、詳細を開示して頂いた。

総事業費約2500万円を要している。

収入内訳は、平均入場料が5.500円で、入場者2.100名、入場料収入約1.500万円であったという。

市、及び各界からの援助が150万円、広告協賛費200万円、自己資金550万円に加えて、小演奏会収益金100万円を加えてやっと収支を合わせている。

我々はこれを、毎回350万円、年50回、総額1億7500万円で上げ、収支トントンとする方策を考えた。 演出、構成をよく考え、何とかこれで出来るようにしたい。

昨年10月29日に、オランダ坂の上にある、旧フランス領事館で、オペラマダムバタフライシンポジウムが開催され、ドナルドキーンさんも参加されて、非常に面白かったが、その時パネリストとして参加された、主にイタリアで大活躍されている、岡村喬生オペラ歌手兼演出家が、今年の秋からのオペラシーズンに向けて、従来の日本人にとっては違和感のある部分を直した、新しい脚本による“蝶々夫人”の上演を開始されると聞いた。

場合によっては、この岡村喬生氏の脚本を使用、長崎の“蝶々夫人”の構成、演出をお願いして、長崎版の定番としたらよいと思う。



以下収支予算を詳述する。

1) 会場

長崎にはブリックホールの大ホールの使用料は一日、土日55万円、平日45万円である。平均50万円と仮定する。年間2.500万円

2) 舞台装置、衣装代

これにいくらかけるかが問題だが、半永久的なものが作れるとしても、当面、計算上、一年間50回だけ、使用すると考える。

仮に舞台制作費が1.000万円、衣装、鬘等の費用1.000万円で出来たとしても、保管料が高くかかるそうで、1ヶ月50万円、年間にすると600万円かかるという。(本当はもう少し安くなる方法があるはずで、調査する)

出し入れ移動料、人工費を含め、一回当り費用80万円と見積もる。年間4.000万円

3) 出演料

出演者はボランティア的要素で長崎在住者を中心に、音楽学校、音楽学部、その他、大学、中高の音楽教師、学生を主とし、下記の日当で行う。(すべて1回当たり)

ダブル、トリプルキャストとし、事前に予定をたてて、自分が出演する日だけ出ればよい。練習は,1年に1回、最初の公演前に、全員で何日かやればよいので、これの練習実費を確保する。

蝶々夫人5万円、ピンカートン3万円、シャープレス、スズキ 2.5万円

ケイト2万円、その他、ゴロー、ヤマドリ、ボンゾ、神官、1.5万円。

合唱その他大勢、5.000円x30人。

指揮5万円、演出5万円、舞台監督、照明、美術、衣装、各2万円

オーケストラ、コンサートマスター3万円、他は1万円x60人

これに、メイク、着付け専門補助、2万円x5人

以上合計、1回125万円となる。

これに、1年1回だけ初回の、練習費、会場借り賃も含め、300万円と準備費200万円を入れると、年間6.750万円

4) プログラム代及スタッフ料金

1回平均800人分のプログラム代として、予備も含め1.000x500円=50万円

一般会場スタッフ 20人x5.000円=10万円

年間3.000万円

5) その他

弁当代その他雑費として1回10万円

年間500万円

6) 宣伝費

年間750万円

これは狭義の宣伝費で、この蝶々夫人を観光に目玉にするためには、後述するように、主として、市や県の観光宣伝費にお願いするしかない。

これが本当に長崎売込みの目玉になるかどうかを徹底的に議論し、そうだ、というコンセンサスが出来たら、しばらくは、お宮日、鐘楼流しにかけている費用に匹敵する位を数年間計上して、県や市の、観光宣伝費を注ぎこんで貰わねばならない。

以上、市や県の宣伝費は除いて、総合計年間1億7.500万円

収支が合う収入約1億7.500万円をどう集めるかであるが、ブリックホールの収容人員2.000人、を満席にすることは無理だが、入場料を4.500円として、平均の入場者を800人とした場合は年間1億8.000万円, 700人とした場合は年間1億5.750万円となる。

広告費、協賛費で、年間1.000-2000万円は集めることは可能なので、年間1億7.500万円の収入は確保出来そうである。



Ⅱ 観客動員

この検証がすべての鍵となる。

この毎回、700-800人の観客動員が可能かどうか、特に観光船船客(当初は欧米系のみ)の観光業者への調査、顧客へのアンケート等は、すべて市の観光予算を計上して貰わねばならない。その後、毎年かなりの観光宣伝予算を投じて、宣伝する。

ここで一番参考になるのは前述の「能登演劇堂」である。

シェークスピアの「マクベス」A席7.500円、B席6.000円で、シーズンは、ほぼ毎日600人の観客を集めて上演している。 能登の小都市、七尾市に観客は全国各地からバスで集まっているのである。

勿論仲代達也の知名度によるが、長崎の蝶々夫人も、やり方さえ考えれば、必ず必要な観客数は集められると思う。

以上の通り、長崎活性化の目玉として、オペラ蝶々夫人の毎年50回上演、また専用のオペラ劇場建設を提案する次第である。 以上



  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 19:17Comments(0)

2010年03月05日

オペラ“蝶々夫人”で、長崎の活性化を考える

長崎が舞台の世界的に有名なプッチーニのオペラ「蝶々夫人」の毎週上演を長崎観光
の目玉とし、世界各地から観光客を呼び寄せようというプロジェクトを提案した。

専門のオペラ劇場を作ろう、というアイデアも入っている。

有力な実例として、能登半島の七尾市は、人口6万弱の小都市ながら、総工費27億
円で650席の立派な「能登演劇堂」を作り、仲代達也主演のシェークスピアの「マ
クベス」を、まさに年50回、上演し、日本各地からバスで観客を集め、町起しの目
玉としている。(参照URL: http://www.engekido.com/sisetsu.html )
 

同様な、オペラハウスを長崎は持つ資格がある。

幸い、沢山の歴史、文化を背景に持った、美しい港町長崎は、世界遺産候補、長崎の
キリスト教教会群もあり、東洋でのキリスト教巡礼地になれるし、これに、オペラ
“蝶々夫人”の観劇という目玉が加われば、まさに長崎は東洋一の観光地となると思
う。

現在イタリアで大活躍中の、岡村喬生氏の脚本を、長崎版 “蝶々夫人”の定番と
し、出演者はボランティア的要素で長崎在住者を中心に、大学、中高の音楽教師、学
生から募集、格安でオペラ蝶々夫人を上演する。年間50回開催の、上演費約1億
7.500万円を、平均入場者700−800人、入場料4500円で集め、広告費収入と合わせ、
収支合い償う事業とする。現在年50隻入港している、観光船船客中心に観客動員を図
り、年間上演予定を組む。




  


Posted by 在京長崎応援団塾 at 19:17Comments(0)